自然災害と教訓
災害年表
〈災害年表〉 【】 1952年十勝沖地震
[1952年3月4日〈昭和27年3月4日〉 –

3月4日10時22分、襟裳岬南東の北緯41°42.3′、東経144°09.0′、深さ54㎞を震源とするM8.2の地震が発生。
この地震により全道で揺れを感じ、震度5を浦河、帯広、本別、釧路で観測したほか、震度4を札幌、函館、森町、小樽、岩見沢、富良野、苫小牧、日高門別、根室で観測、震度3を江差、倶知安、寿都、旭川、羽幌、留萌、網走、雄武、室蘭で観測した。
津波は地震後約5分で襟裳岬周辺に到達、10時50分頃に様似、浜厚内付近、11時頃に浦河、霧多布付近、11時30分頃に函館、根室市落石付近に到達した。最大の高さは検潮所の観測では釧路90㎝、広尾180㎝、室蘭55㎝、函館60㎝。
北海道の人的被害は、死者30名、重傷90名、軽傷426名。
被災者総数は15万9114人、被災戸数3万9611戸。
【死者の特徴】
死者のうち9名は、集合煙突の倒壊によるものであり、うち7名が釧路市で被害にあった。春採中1年の少年は校外に避難しようとして崩れてきた煙突の下敷きになった。白糠町では執務中の吏員が戸外に飛び出した瞬間に崩れて来た煙突の下敷きになった。音別(釧路市)でも工事技師が煙突の下敷きとなって死亡した。
釧路市春採の太平洋炭鉱のズリ捨て場が地震の揺れにより約200mほど崩壊し、下にあった社宅四戸を押し潰して8名が死亡した。そのうち一軒では二日前に出産した母子も犠牲となった。
浜中町霧多布では津波により3名が死亡した。2名は身体が不自由で逃げ遅れた。1名は避難を勧められたが頑固に拒絶し、自宅前でマキを割っていたところに津波に襲われ、亡くなった。
浜中町床潭では津波により3名が死亡した。1名は身体が不自由で逃げ遅れた。1名は乳児で、母の背中に負われて避難中に海水を浴び、急性肺炎で亡くなった。もう1名も幼児で、避難準備に手間取っているうちに家屋に海水が侵入、天井まで吹き上げられたため、梁に頭を打って即死したものである。
釧路市でも津波で1名が亡くなった。運輸会社の組頭で、作業中に津波に襲われたものである。
浦幌中学校では教諭1名が生徒の退避と火災の始末を見届けて、最後に校外へ出ようとする瞬間に校舎が倒壊、即死した。その際、校長も下敷きとなり、大腿部骨折の重傷を負った。
豊頃では出産間近の若い女性が寝ていたところ建物が倒壊して死亡した。また、55歳の男性が、地震によるショックで心臓麻痺を起こして死亡した。
厚真では、耕馬を引き出そうと馬舎に入ったところ、建物が倒壊して1名が死亡した。
池田町では地震により路上に避難した5歳の男の子が、地震によって暴れた馬に蹴られて即死した。
【住家被害】
住家は全壊1724戸、流失86戸、焼失9戸、半壊29,631戸、浸水193戸にのぼった。
浦河町では常磐町や東町など河川沿いの湿地帯で多くの建物が全壊程度の被害を受けた。
3月初旬は積雪の多い時期ではあるが、雪の重みと地震の揺れにより倒壊したという家屋は全くなかった。
十勝・釧路の酪農地帯ではサイロの被害が大きく、池田町では58基のうち90%に当たる52基が損害を受けた。
【その他】
新冠町では牧草地の一部が地震の際に60センチ~1mほど隆起し「日高新山」とよばれた。
漁船は日高管内で162隻、十勝管内で32隻、釧路管内で574隻の被害があった。
避難所は、浜中、厚岸、音別、昆布森、池田、幕別、豊頃、大津、浦河の9町村で22ヶ所開設。総人員4万1400人を収容したが、浦幌では倒壊した家の軒先で戸外でストーブを焚きながら家財を守り避難所に入ろうとしない人が多かった。また、豊頃では牛馬に飼料を与える必要から、避難所に入らず壊れかけの牛舎などに寝泊まりする農民がいた。

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